NPO法人 緩和ケアサポートグループ(PCSG)
PCSGレター No. 5(2010年10月)
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田3-12-2 伊澤ビル4-D
電話/FAX:03-6318-5184
Email :
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http://www.kanwacare.com --------------
いつもご支援、ご協力をありがとうございます。
足早に秋、そして冬へ? 皆様いかがお過ごしでしょうか。
年2回発行予定のニューズレターの今年度第1号(通算第5号)をお届けいたします。
6月の希望の会の研修会報告を中神先生に執筆いただきました。
ライフレッスン抄、前回も好評だった「ちょっと一服コーナー」を継続掲載しています。
編集はいつものように札幌在住の草島夫妻により、秋らしく、可愛らしく仕上がっています。
お読みいただければ幸いです。
レターにはインフォメーションもたくさんございます。10月31日開催の学習会ご案内とあわせて、是非ご予定にいれていただけますようよろしくお願いいたします。
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河 理事長からのご挨拶
猛暑の夏もようやく去り、実りの秋の到来、皆様いかがお過ごしでしょうか。
あまりに続く暑さに息も絶え絶えの夏の終わりに素敵な実りをいただきました。
当法人の設立発起人の一人であり、会員として活動に参加くださり、
昨年2月には研修会の講師も引き受けてくださった
新倉晶子さんのご著書「音楽で寄り添うということ-ホスピス緩和ケアの音楽療法」(春秋社)です。
新倉さんとは20年近く前、 誕生して間もない救世軍清瀬ホスピスで
非常勤ナースをしていたときにお会いして以来のおつきあいです。
本来音楽がご専門なのに、まず看護助手としてホスピスに勤務なさり、
患者さんやご家族の日常に触れていかれました。
ご本に貫かれているホスピスマインドはこの日々の積み重ねから生れ、
その後、音楽療法士としてミュージックタイムを確立していく働きのなかで
育まれていったのだと拝察します。
読了したとき「継続の力、誠実さの力、実践の力」が迫ってきました。
詳細は・・・ぜひお読みください。
この三つのことを、我らがNPO法人PCSGでも大切にしていきたいと考えています。
さて、お届けするニューズレター2010年度第1号も、
秋の夜長にお読みいただければ幸いです。
ご報告
かねてより、活動のための助成金申請を計画しておりましたが、
5月の総会で報告しました応募先「公益信託 オラクル有志の会ボランティア基金」から
今年度12万円の助成金をいただくことができました。これは当法人主催の学習会開催のために用います。
コミュニティケアをはぐくむ希望の会 第7回研修会のご報告 2010年6月26日開催
小雨の降り出す中、三鷹駅近くの武蔵野芸能劇場小ホールに、
福山和女先生から「みんなのためのケアの心得」を伺おうと80名余の人が集まりました。
先生は、アメリカのボーエン教授のもとで家族関係論を学ばれ、
現在、ルーテル学院大学社会福祉学科で教鞭をとられています。
総合人間学研究科長、大学院付属包括的臨床死生学研究科長を兼任されているのは、
現場40年の豊富なご体験あってこそでしょう。
研修会は、藤沢さん(ルンルンファーマシー)を司会者に、
まず、河さんが「希望の会」発足の経緯から現在の7回目にいたる歩みの紹介がありました。「希望の会」の
原点はケアであり、希薄になりつつある地域で生きる人々の絆を‘ケア’の力で再び強く結びなおしたい、
そんな思いをこめての研修会と話されました。
にこやかに登場された福山先生は、開口一番「みんなのために」の中に‘自分’も入っていますか、
と問いかけられました。家族で問題のない家族はない、初めから問題があるのではなく、
現象として家族問題がおこってくる。専門家でも‘揺れる’が、その人に応じて、
また家族に合った‘その時’にbestな援助をする必要がある。‘揺れ’を感じないのは
援助者として無理をしていることになる。人間として援助するなら、多いに揺れた方がよい、
と前置きされて第一部の講演が始まりましたが「さあ、今日は多いに動いていただきましょう」と
参加者の意表をつくものになりました。
第1部の主題は、ケアの概念、どの時期にどのニーズに焦点をあてるか、ということです。
家族・友人・知人・第三者それぞれに対するケアごとに、場面をイメージしながら行動するという
ワークショップが短時間ですがきめ細かい指導のもとに行われました。
例えば家族に対するケア:
隣り合う二、三人で擬似家族をつくり、役割を決めて何らかの場をイメージして演じる。
夫婦の一方が病人という世帯、三人三様に普通にテレビ見て団欒している家族、など。
家族のイメージはさまざまで独自性があること、
会話の仕方も温かいことが多い。世界には、女が狩りに出て男が家族ケアをする部族、
男女ともに農作業する家庭に、家事専門の若い男性がくる社会(派遣主夫?!)、
動物でも仔ウシの世話を若い雌牛たちが手を組んで授乳する例など、家族は多様多彩。
核家族が良いのか、大家族が良いのか、という投げかけもありました。
友人に対してのケア:
精神的距離に遠近の違いがあっても、思いやりは双方向性。「あの人どうしているかしらん」と
考えるだけでもケア! いずれのケアにあっても、家族に対するケアが土台になっている。
現在の地球上に存在する家族の元になった‘原家族’は13だそうだ。
家族と共にケアの仕方も伝承されてきたと言ってよい。
フロイトと保育の中で、オムツを変えて欲しいとき(相手の存在を意識している)、
赤ん坊は肛門の筋肉を母親の反応に合わせてコントロールしている(忙しいから我慢して!にも)。
ケアは身体を通して伝承されてくる。
人が必要とするケアには3つの次元がある:
これまで-行ったケア 対 受けたケア、
いま-行っているケア 対 受けているケア、
これから-行うケア 対 これから受けるケア。
過去・現在・未来と、人はケアを連続的に受け、かつ与えて生きてきた。
つまり、人は相互に他をケアし、ケアされる関係にある、という点で誰しもケアの達人。
でも、100%ではないから他者の力がいる。
ケアの本質を折り込んだ語りかけを頂きながら、第1部はなごやかに過ぎました。
第2部は 8つのグループに分かれてのディスカッションです。名札をはずして加わるスタッフもいました。
偏りのないように福山先生がグループを調整され「ケアと聞いてどんな色を思い浮かべますか?」
という課題で始まりました。まず、
ⅰ)Aさんが右どなりのBさんに上の質問をする。答えた色について、
A「あなたは…と思ったから…色と答えたのですね」。
Bさんは、この問いが合っていなくても「そのようにおとりになったのですか、有り難う」と返す。
ⅱ)グループのリーダーに選ばれた人が、各人に「何をお話したいですか」と聞く。
2回まではパスしても良い。ニコッとしている時に聞く、会話は短く、
相手が語っているときは傾聴する、など先生が助言していかれる。
ここでの目的は、人の六側面のニーズを理解することです。
人には、心理的、精神的、物理的、身体的、社会的、スピリチュアル的なニーズがあります。
〔物理的ニーズが私には耳新しい言葉でしたが、
「働いて生活していれば、ケアには沢山の物理的ニーズがありますよ」に納得しました。〕
8グループのリーダーが話し合われたことを報告し先生が適宜助言:
‘ 精神障害者に対するケアの大切さ ’
‘ 人を人としてみることの大切さ ’(心はつながるものなのか?を話し合って)
‘ 介護の心得:揺れていいのだ ’(「揺れの共有が出来るといいですね」)など。
ニーズには理想と現実のギャップが付きものだが、情報交換が出来たことが良かった
と好評裡に第2部が終わりました。
福山先生のまとめの中で‘遷延性意識障害者’へのケア指導を学生にされた話が印象的でした。
この方達は感覚で内面の思いを出されるそうです。気持ちよいときは身体が軽くて温もりがあり、
怒っているときは重くて熱い。ケアする人も言葉では返せないので感覚で返す。
「揺れていないとこれは出来ない、自分を磨かない!素のまま出すことです」と言われたのですが、
難しそうです。現代っ子は良い子になろうとしており、思考面・精神面でかたい。けれど、
子どもの時にほめられた体験があると、それが良い思い出になり、今のケアにつながる。
ケアがもつ時間性・関係性ということであろうと思われます。「ケアする人は支え合っている感覚をもつこと、
だけどケア現場ではエネルギーを与えなければならない存在ですから、
それぞれは外でエネルギーを得ておくことが必要、バーゲンに行く! とかね」と
ユーモアたっぷりに講演を締めくくられました。
福山先生再登場を願うアンケート回答が多く寄せられたことです。
東郷先生から閉会挨拶
「希望の会」の今後の予定が知らされて研修会は終わりました。
―ライフ・レッスン―
ホスピス緩和ケアの発展に大きな影響を与えた「死ぬ瞬間-死にゆく人々との対話」の著者
エリザベス・キューブラー・ロスは、晩年に病の床で、同労者デーヴィッド・ケスラーと共に
「ライフ・レッスン」という味わい深い書を著しています。その14のレッスンの中から、
印象に残る文章を少しずつ紹介していくコーナーの3回目です。
第3章 人間関係のレッスン より
*人間関係は人生のレッスンを学ぶ最高の機会をあたえてくれるものである。
自分はほんとうはどんな人間なのか、なにを恐れているのか、自分の力はどこから生れるのか、
真の愛とはなんなのか、人間関係はそれを発見するための場である。
*もっとも親密な関係からもっとも疎遠な関係まで、
それぞれの人間関係に共通する分母があなたという存在である。
ひとつの人間関係にたいするあなたの態度・・・否定的か肯定的か、好意か憎悪かを問わず・・・が、
すべての人間関係に反映している。
*ロマンチックな関係はある意味ですばらしいものであり、とてもむずかしいけれども魅力的な経験である。
そんな関係がもてれば、自分をだめな人間だとおもうこともなく、
この世にただひとりの人間としての誇りをもつことができる。ところが、まちがってその関係が
自分を「確固としたもの」にしてくれると信じたときに、問題が生じる。
人間関係は人を確固とした存在にしたりするものではない。それはおとぎ話の思考だ。
*あなたは、ただあなたであるというだけで、
だれかとくべつな人なのだということを、けっして忘れないでほしい。
仕事で成功してようといまいと、完璧な相手と結婚していようと独身であろうと、
あなたはこの世界にとって、唯一無二の尊い贈り物なのだ。あなたはすでに一個の全体であり、
外からなにかがやってくるのを待つ必要はない。
*幸福は関係が「よりよい」方向に変わることから生まれるわけではない。
じつは、他者を変えることなどできるはずもなく、また、そうしてはならないのだ。
では、相手が変わらなかったら? こうかんがえてほしい。
あなたがほんとうの自分になりたいのなら、
相手もほんとうの自分になることをみとめるべきではないだろうか?
*問題はつねにあなたにある。あなたが自分の運命をつくっているのだ。
目のまえにある問題のなかにどんなレッスンが隠れているかを読みとるのはつねに当人だけである。
問題をとり除くかわりに、その問題を共有している相手をとり除こうとする人が多すぎる。
*人間関係にまちがいというものはない。事態のすべては、なるべくして、なるべくように展開する。
最初の出あいから最後の別れのことばまで、わたしたちはたがいに関係のなかにいる。
関係をとおして自己のたましいの存在を学び、たましいの豊かな構造を学び、
自己を癒しへとみちびくことを学ぶ。
愛の関係において先入観から生まれた自分だけの備忘録を手放したとき、
わたしたちはだれを愛するか、いつまでつづくかといった疑問をしりぞける。
ちょっと一服 コーナー
《そんじょそこらの私が猛烈にお薦めする傑作映画選(未見は人生ちょっぴり損するかも!?)その3》
「ラースと、その彼女」 2007年・アメリカ クレイグ・ギレスピー監督
ミニシアター系アメリカ映画で、アカデミー賞では脚本賞にノミネートされた作品です。
主人公は、田舎町の皆に慕われているものの、内向的でコミュニケーション下手な青年のラース。
ラースの家の向かいには出産を控えた兄夫婦が幸せに暮らしており、
彼らもラースの事をとても気にかけています。
そんなある日、あのラースが「彼女を紹介したいから一緒に食事をしよう」なんて言ってきたもんだから、
兄夫婦は大喜びで彼らを迎えます。 …ところが、ラースが連れてきた彼女とは、大きな女性の人形、
俗に言うダッチワイフであり、さらに彼がその人形に対して本物の彼女のごとく話しかけたり、
振る舞ったりしているのを見て、兄夫婦は唖然呆然「これは頭がどうかしてしまっている、
早く医者に見せなければ!」と大騒ぎ。
間を置かず、田舎町の皆の知るところとなります。
そんなラースの行く末や如何に?といった感じのお話です。
これだけ聞くと、設定が設定だけに奇をてらったキワモノ映画のように思われるかもしれませんが、
そんな心配は無用です。何だかんだで下ネタ要素も ほとんどありませんし。
また、こういう風変わりな設定をシリアス、サスペンス方向に持っていく映画や小説もありますが、
この映画は前半ずっとコメディ路線で進んでいきます。
私も笑いながら良く出来たコメディだなぁと楽しく観てました。
しかし、中盤以降コメディ色は徐々に薄れていき、こちらも真剣に見入ってしまう展開となります。
そして、全部観終わってみると、これはラースの心模様や死生観の変化と成長を描いた、
所謂笑いあり涙ありの、温かみのあるヒューマン映画である事がわかるわけです。
原題は「Lars and Real Girl」なんですが、これも観終わってから考えると、
いろんな意味で捉えられるはずです。
この映画が最終的に良質なヒューマン映画となりえたのは、
何と言ってもラースの周囲が皆、彼を思いやる心優しい人達だからです。
兄夫婦も町の人々も最初はラースの言動に引いたり、苦笑いを浮かべていますが、
決して彼を除け者にしたり、彼に害を与えようとはしませんし、
むしろ彼に合わせる努力をしながら温かく見守っていくんですね。
ただし、こういう展開を「有り得ない、非現実的だ」と嫌悪する人達もいるでしょう。
私も基本的に善人だらけの映画には虫酸が走るタイプですから、 その気持ちは良くわかります。
しかし、私がこの映画でそういう嫌悪を覚えなかったのは、
これは感覚的なものでうまく説明できないのですが、この映画内の世界においては、
この展開は自然であり成立している、と感じたからとでも言いましょうか。
まあ、ひねくれ者な私が気にならなかったんですから、皆さんもきっと大丈夫でしょう。
また、この映画は人形を人間のごとく扱う話という事で、
そういう事に嫌悪を抱くタイプの観客にもちょっとした問い掛けをしています。
人間とアンドロイドの線引きは?みたいなSFアニメや映画で見られるような哲学寄りの思考ではなく、
犬に服を着せている人は? 動物のぬいぐるみやフィギュアに愛着を持つ人は?なんてもっと単純な事で。
私はこの映画で思いがけず福祉というものについて考えさせられました。
ダッチワイフを彼女とするラースは一般的に見れば明らかに精神を病んでいる
(こうなるに至った理由は映画内で徐々に明らかになります)が、
周囲がそんなラースを受容する事で彼は全くもって普通に暮らせているわけです。
その点から見れば、この映画は理想的なノーマライゼーションの成立を描いているとも言えるわけですが、
この状況を映画というフィクションとしては容認できる人でも、
これはあくまで映画だからであって現実的には有り得ない事、
と考える人達が多いのが現代社会ってものでしょう。
もちろん、私もその1人です。
とするなら、福祉ってのはある意味、
物凄いファンタジーの成立を目指しているんじゃなかろうか?と思うわけです。
しかし、考えてみれば、それは遠目で完成形を見せられた時の傍観者の印象であって、よくよく見ると、
個々の関係においては、対象者(この映画ではラース)の行動を理解し受容しているだけで、
(彼ほどに皆に愛される人は稀にせよ)別に周囲の人間に超能力要素が求められるわけでも、
お金の支払いが発生するわけでもありませんから、人として充分可能な行為なんですよね。
でも、それが集まった(だけの) 形態が非現実的、理想論に過ぎないと揶揄されたり、
何だかとってもファンタジーに見えてしまう世の中って何なんだろうと。
これは社会がおかしいのか、人がおかしいのか、私1人が色々斜めに見過ぎているだけなのか。
一方で、福祉が現代社会に生きる人々にファンタジーのように写るものであった としても、
そのファンタジーは決して傍から見る程には実現不可能なものではない、
つまり、福祉ってのはファンタジーの具現行為であると同時に具現可能なファンタジーである、
なんて見方をしてみると、それはとても素敵な事なんじゃないか?とも思うのです。
実現可能な現象って時点で、 それはファンタジーと呼べないんじゃ?なんて定義の話はさておき。
些か話は逸れてしまいましたが、ひねくれな私も素直に心温められてしまった映画でありますから、
オススメしないわけにはいきません。
<インフォメーション>
◆学習会:「病む人の思い を聴くために 〜ケアするものの心得〜(仮)」
講師 W.キッペス先生(NPO法人臨床パストラル教育研究センター 理事長)
2010年10月31日(日) 14時〜16時
武蔵野商工会議所会議室(定員42名 先着順)
◆見学学習会: 在宅緩和ケア支援センター「虹」(仙台市)訪問
2010年11月5日(金) 15時頃から
現在、中神、河参加予定です。希望者は至急河宛ご連絡ください
◆若竹ミュージカル: 鈴木文雄様(当法人会員)ご参加の公演
2010年11月21日(日)13時開場予定
和太鼓クラブの演奏の後、14時から開演。学芸大学小金井キャンパスの芸術館(別称、元気館)演目は、
萩京子さんのオペラ「ロはロボットのロ」です。その中の6−7曲をコンサート形式で発表する予定。
◆希望の会 研修会:ご家族のケアに関する講演
講師 大西秀樹先生(埼玉医科大学国際医療センター精神腫瘍科 教授)
2011年1月29日(土) 14時〜16時
武蔵野公会堂会議室(定員108名 先着順)
編集後記
朝晩は羽織るものが欲しくなり、秋めいた日が多くなりました。北海道では初冠雪の知らせもありました。
秋を感じはじめたばかりなのに、もう冬はそこまで来ているのだなあと思います。
そんな中、PCSG2010年第1号(No5)を皆様に無事にお届けできること、いつものようにほっとしています。
レターに寄せられる原稿を夫ともに編集する作業は、PCSGの活動を振り返るよい機会になります。
ぼちぼちではありますが、これからもよろしくお願いいたします。(札幌より)